赤穂十七義士遺髪塔

山門をくぐり左側に遺髪塔があります。

赤穂義士と日輪寺の由来は、当時の将軍綱吉公が将軍代に仇打ちはまかりならぬと布告していましたが、赤穂義士はひそかに話し合い、仇討

を成し遂げました。この事を知った綱吉公は浪士等に切腹を申しつけ、細川藩江戸屋敷に十七名、松平藩十名、尾張藩十名、水野藩十名と四か

所に御預けの身にしました。

細川藩の大石良雄外十六名が送られてきたとき、藩主綱利公は浪士たちを門前に出迎えられ、武士の鏡であるとほめられ、藩士の堀内傳右衛門

に接待役を申しつけられ、傳右衛門は浪士等に三度の食事を二汁五菜、今でいえば会席膳で、御預かり五十日間接待をしました。

あまりのごちそうに大石良雄は切腹の前日、浪士たちを集め、たまには黒めし(玄米)にいわしがたべたかったと言われたといいます。

切腹後に傳右衛門は自分が御世話をした義士との別れがつらい、と将軍綱吉公に髪の毛なりともと申し出て、もらいうけ、自分の菩提寺である

日輪寺に持ち帰り、供養塔を建てました。

今もこの場所に遺髪塔として残され、毎年二月四日(切腹の日)を命日とし、山鹿市観光協会により供養祭が(義士祭り)行われます。